今週の1枚

No.377  母との思い出、熊本にて    更新日:2011/9/3


熊本赤十字病院



ロビーのコンコース



食事処味多。いつも食べた生姜焼き定食もそのままでした。



いろいろな買い物をした鶴屋のショップコーナー食事処味多。


先日、大学時代のミニ同窓会で熊本市に行った。
熊本市は私が大学の青春時代を過ごした思い出の街である。 そして、私の母との最後の別れの場所でもある。 私の母はここ熊本で亡くなった。早いもので今年の秋が七回忌となる。 そんな今年の夏、ちょうど熊本を訪れる機会を得たので、久しぶりに母との最後の別れの場所である病院を訪れて思い出に浸った。 そんな母との最後の別れの思い出をここに綴らせていただきたい。
6年前の秋、私の母は地域の婦人会の皆さんと年一回の旅行で一泊で熊本へ出かけた。 私の母は滅多に行くことができないが旅行は好きで、秋の農繁期も一段落したこの時期に地元の婦人会の皆さんと一緒に行く旅行を毎年楽しみにしていた。 ただ、何年か前に倒れて病気を患った父を一人にすることが心配で、出かける時はいつも「一泊したら帰ってくるけん、お父さんのこと頼むね!」私に何度も言って出かけていた。 私は実家の隣に住んでいるので、夜は一人になる父のことをいつも心配していた。 この時もたぶん、前日に私にそう言ったはずだが、何故かこの時に旅行に行く前に母と何を話ししたかをよく覚えていない。どうしても思い出せない。
母が旅行に出かける朝、私が会社に出勤する時に母が庭をウロウロ歩いていた記憶があるが何か話をしたかはっきりしない。その後、母は旅行へ出かけたであろう。 母の旅行の初日の夜は父と一緒に食事をして父の夜の無事を見届けた。 母の旅行の二日目、私は日帰りで早朝から名古屋へ出張であった。そして、母はその日の夕方には旅行から家に戻ってくるはずであった。
私はその日は名古屋のある会社で午後から仕事であったので、昼前に名古屋駅に到着し、昼食後に中央線で目的の駅へ移動していた。 あと15分で目的の駅に到着する電車の中で、突然、携帯が鳴った。会社からの電話かなと携帯を見ると、家内からの電話であった。 「お母さんが旅行先の阿蘇で倒れて意識不明らしい!熊本市の病院に運ばれたらしい。」と言う。 私は一瞬、何のことだかわからなかったが、漸く母が旅行に出かけていたことを思い出した。 「どんな状態ね?」と聞いても家内もそれ以上のことはわからないから、今から父と近所の人と一緒に熊本の病院に行くところだと言う。 どうも状態は良くないらしい。 私もすぐに病院へ駆けつけたかったが、これから仕事であり、あいにく今回の出張は私一人だったので、仕事を済ませないことには身動きとれない。 「とにかく、仕事が終わったら、すぐにそちらへ駆けつけるから、何か状況がわかったら連絡くれ!」といい携帯を切った。 その後は仕事を少しでも早く終わらせることに集中しようとしたが、頭をよぎるいろいろな事との格闘であった。 数時間後、無事に仕事を終え、帰りの電車に飛び乗りながら家内に電話をすると、ちょうど病院に着いたところだという。 内心、無事であってほしいと一意の望みを期待していたが、残念ながら母の状態は良くなかった。 阿蘇を旅行中のバスの中での脳出血で、その後、熊本市まで救急車で運ばれたが、病院に着いた時に既に手の施しようもなかったらしい。 意識不明の状態であるという。 「とにかく、今から帰って病院へ向かう。」といい九州へ戻るが、その時の新幹線の中での時間が長かったことは今でも忘れない。 一旦自宅へ戻り、妹と合流して一緒に熊本の病院に着いたのは深夜であった。 病室には酸素マスクをし、計器や点滴などいろいろな管を繋がれた母が無言でベッドに横たわっていた。 そして、その横に父と家内が寄り添っていた。 すぐに先生から状態の説明を受ける。やはり病院に運ばれた時にはもうどうしようもなかったらしく、今は延命措置の状態らしかった。 どうやら父が先生にお願いし、息子が駆けつけてくるまではなんとかもたせてほしいと延命措置をお願いしたらしい。 その延命措置で長くて9日くらいと先生は言った。
それからは、付き添いの父の為に病院の近くのウィークリーアパートを一室借り、私も白川と熊本の往復が続いた。 何度と、病室で母のそばで夜を明かしたが、たぶん、高校卒業以来、母のそばにいたことはこの時が一番長かった気がする。 しかし、母は傍に居れども、全くの無言であった。私は何度も「ありがとう!」とつぶやいたが無言であった。 できれば、意識がある時にきちんと「ありがとう!」と言いたかった。 ある時、ベッドの傍で座っている時、突然、母の右手がゆっくりと動いて手を上に持ち上げた。 もしかして、意識が戻ったかと思ったが、それは一瞬であった。どうやら、何かの拍子の神経の圧迫でひとりでに手が上がったのだろうということであった。 今思うと、もしかしたら最後のお別れの合図だったのかもしれない。 入院中、傍らでじっと座って見守ってることしかできなかったが、いろいろな思い出がお頭に浮かび、無言ではあるが母と本当にゆっくりと一緒の時を過ごせた気がした。 結局、入院して9日後、母は無言のまま旅立った。
そして10日ぶりに漸く母は自宅へ帰ることができた。まさか、こんな状態で旅行から帰宅してくるとは予想すらしていなかった。 葬儀の日は素晴らしい秋晴れの天気であった。庭には母が育てた秋明菊が綺麗に咲いて風に揺れていた。私の母は花が大好きであった。 最後のお別れの時、私は庭の秋明菊を摘んできて母の傍らに入れてやり、最後のお別れをした。 葬儀のお礼の挨拶で私は号泣して言葉にならなかった。たぶん、人生で一番の号泣であっただろう。
早いものであれから6年が過ぎた。熊本の病院を訪れるのもあれから三度目である。 看病中に一番印象に残っている病院ロビーコンコースに入ると当時の想いが蘇る。 買い物をした鶴屋のショップコーナ、父と交替で食事した食事処味多も6年前のままであった。 ここのロビーの椅子に座っていると、隣の病棟にまだ母が入院している気がしてくる。 そしてここが、まさしく私が母に会える思い出の場所であった。 たぶん、また訪れるに違いない。
Taka記、撮影:2011年8月20日

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